昨年2月1日に94歳で亡くなった佐藤初女はどんな人?

 

佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 – 2016年2月1日[1])は、日本の福祉活動家、教育者。1992年より青森県岩木山山麓に「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れ、痛みを分かち合う癒しの場を主宰。

それ以前は弘前市内で自宅を開放して同様の活動をしており、こちらは「弘前イスキア」と呼ばれていた
素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しにより、からだから心の問題も改善していくことができると訴えた。

「イスキア」とは、イタリアの南部にあるイスキア島の名前から採られたもの。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて、贅沢三昧の生活から、自分を静かに振り返ることを学び、そこの司祭館に滞在したというエピソードから借用されたものである。佐藤自身もカトリックの信者。

青森市生まれ、青森技芸学院(現在の明の星高等学校)を卒業。3年間小学校の教員をし、1944年に勤務校の校長だった佐藤又一と結婚。夫は既に3人の子どもがあり、再婚だった。その後は、教職を退き、弘前市内に在住。ろうけつ染めの指導などをし、1964年より15年間、弘前学院短期大学非常勤講師として家庭科で教鞭をとる。1979年には、弘前染色工房をオープンさせる。

地域に密着した多年にわたる教育、福祉の活動により、アメリカ国際ソロプチミスト協会賞、ミキ女性大賞、国際ソロプチミスト女性ボランティア賞、弘前市シルバーマンジ賞、第18回東奥賞など受賞。1995年、龍村仁監督の『地球交響曲 第二番』に出演。

2016年2月1日、弘前市内の病院において乳癌のため逝去。享年94歳。


生涯元気サロンを自宅でオープンしています!

 

 佐藤初女という方が、青森県岩木山山麓に、「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れて、痛みを分かち合う癒しの場を提供していたことは、多くの方に利用され、映画「地球交響曲第2番」に出演したことなどで有名な方でした。しかし残念ながら2016年2月1日に94歳でお亡くなりになりました。
 そこで佐藤という性が同じという誼から、私の最後のご奉仕として、その遺訓を継いで、北海道の手稲山山麓近くにある自宅を開放して、「生涯元気道場」をオープンすることにしました。
  道場に参加をする方は、以下の中から希望するものを選んでください。

①運動不足を解消するために行うピンピンコロリ運動の指導    https://www.youtube.com/watch?v=Eb3vxvgCX68
②ストレスなどを解消するために行うリラックストレーニングの指導
うつ病神経症などなどの心の病を解消するための森田式精神健康法の指導
④笑いの効用を引き出す笑いのレッスン法の指導
⑤老化防止にもつながる高核酸食事法の指導
⑥ひざの痛みを解消する奇跡の自己治療法の指導
⑦生きがいのひとつとしてオカリナ演奏法の指導
⑧自分の生きてきた証を遺すための「生涯思い出動画」の作成
⑨その他悩んでいることで相談したいこと
道場場所 札幌市西区西野4-8-5-7 佐藤光男宅
(札幌地下鉄東西線終点駅・宮の沢下車ーお迎えに参ります)
費用 一切無料
申し込み方法 電話011-662-4177

携帯070-5067-4177
ファックス011-662-4187

メールpinpinkororiundo@yahoo.co.jp
佐藤光男 プロフィール
■1931年、北海道根室市生まれ、
■慶応大学卒業後、銀行マンとなりバリバリ仕事をこなす。
■40代から、突然体の調子が悪くなり、アレルギー性鼻炎、糖尿病、高血圧、腎臓、肝臓を併発して病院通いが続く。
■体重も増加し、それらの病気を助長させ、さらに苦しくなる。
■50歳で管理職になるも、健康上の不具合で仕事がこなせず、神経症も発症。
■仕事中に倒れ、病院へ、そして入院。会社も休職する。
■6ヶ月間、会社を休職している間に、心から健康を取り戻すために様々な健康法を試みる。
■それらの経験と、さまざまな研究を重ねた結果、オリジナルの運動方法“ピンピンコロリ運動”を考案。
■退職後、「佐藤道場」を開き、多くの人の健康の悩みから救う。
■平成4年、「定年後をどう生きる」出版しロングセラーになる。
■平成15年、内閣府認定生活達人の称号を受ける。
■その後も、『笑う顔には福きたる』『ピンピンコロリ運動』等を次々に出版。
■現在、PPK運動を講演などで多くの人に教え、過去の私のように健康に悩む人を救うべく日夜活動中。

■著書
「定年後をどう生きる」北海道新聞社・刊
『笑う顔には福きたる』健友館・刊
『ピンピンコロリ運動』太陽・刊
「運動不足解消法ーNHKでも紹介されたピンピンコロリ運動のすすめー」
電子書籍アマゾン・刊